
うちわ祭は京都八坂神社の祇園まつりが夏祭りとして全国に広まったものの一つです。
平安時代(869年)「エキリ」と呼ばれる伝染病が流行したとき、疫病退散の祈願を行った祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が祇園祭の起こり。
熊谷には文禄年間(1592年頃)京都の八坂神社を勧請し、その後愛宕神社に合祀されました。
熊谷の夏祭りが文書として残っているのは、江戸時代・1750年で、これによると町民から役人へ「夏祭りを各町内一斉に行うように」と願い出され、それが許可されました。この頃から現在のうちわ祭りのような形態が作られたと考えられています。
1830年頃から、熊谷の祭は一層にぎやかになり、商店では買い物客に赤飯を振るまったといいます。そしてこの「赤飯振舞」は熊谷の名物になって行きました。
うちわ祭りという名前が付いたのはこの後のことで、泉屋横町の「泉州」という料亭が、手間の掛かる赤飯の代わりに江戸から買い入れた渋うちわを客に振る舞ったところ大変評判になり、どの商店でも赤飯の代わりにうちわを出すようになりました。
当時はうちわが生活必需品であり3銭の買い物にも5銭のうちわを振る舞ったことから、その評判は大変だったようです。
時代の流れにつれ、疫病退散の祭からいつしか、五穀豊穣・商売繁盛の祭とかわってきました。
しかし、最近になって熊谷市銀座の新島章夫氏(銀座区組頭)によって非常に興味深い文献が明らかになりました。「江戸時代の団扇の話」は江戸時代から明治に続く団扇の老舗などを綴ったもの。
これによると、江戸時代は配り物としてうちわを使うことはなかったといいます。明治維新のおり、大名たちは江戸からそれぞれの領地へ引き揚げた。その際に、それまで大名のお抱えの職人達も一緒に移ったそうです。伊場仙も、松平藩にと共に群馬県前橋市に移っている。ということは、熊谷を訪れたことがあるということです。
明治中期になって仕事を求め職人たちは江戸に戻り、手ごろな配り物用のうちわなども手がけるようになっていった。名入れの渋うちわを作ったのもこの頃のようである。
もうひとつ、興味深い資料に、伊場仙のあった日本橋で祇園祭が行われていたのです。しかも、神輿に向かって大量のうちわを投げる「うちわ天王」として・・・。そして、このお祭りを見た熊谷の料亭主人が熊谷でもこのお祭りをと考えたとは思えないだろうか・・・。
推測の範囲を出ないものではあるが、右のような錦絵が残っているというのは非常に興味深い。このお祭りは今ではうちわを投げることはないが、4年おきの4月下旬に「小船町天王祭」として開かれているそうです。
