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ムサシトミヨが熊谷市の天然記念物に指定されたのは、1984年8月1日のことでした。
しかしそれに至るまでには、多くの人の苦労があったことを忘れてはなりません。
ムサシトミヨがこの世に出たのは、昭和8年(1933)のこと。井の頭公園で発見されたムサシトミヨが学会で報告されたのが初めだった。
この時はむろんムサシトミヨという名前はなく、トミヨ属の一種ということだった。
熊谷でも、昭和16年(1941)に発行された「熊谷郷土史会誌」で、郷土史家の小沢国平氏がトゲウオの生態研究や保護を訴えた。しかし、当時この辺りにはたくさんのムサシトミヨが生息していたようで、昭和17年(1942)に作られた「熊谷いろは歌留多」には「星川に珍魚トゲウオ」と歌われています。
このムサシトミヨに最大の危機が訪れたのは昭和32年(1957)のことでした。
この年の異常渇水で関東各地の湧き水がかれ、ムサシトミヨは行き場を失っていきました。
しかし、熊谷は幸運にも熊谷の元荒川上流の水が枯れることはありませんでした。この年元荒川上流にニジマスなどの冷水性の魚の増殖を行う「埼玉県水産試験場熊谷支場」ができたのです。
熊谷支場では新鮮な地下水を大量に汲み上げ、その排水を元荒川に流したので、湧き水が枯れても川には清冽な水が流れつづけたのです。
そして、この施設ができたためにこの辺りでは農薬の空中散布が回避され、このことがムサシトミヨが生き残った大きな要因となりました。
ムサシトミヨという名が付いたのは学会で発表されてから30年後の1963年(昭和38年)。国立博物館の中村博士によってトゲウオ科トミヨ属の亜種として、ムサシトミヨという和名が与えられたのです。 この後、ムサシトミヨは既に絶滅したと一般的には思われていたのだが、1973年(昭和48年)2月7日一つの転機がやって来た。
「絶滅したと思われていたムサシトミヨを日本野鳥の会の高校生3人が熊谷で発見した」と写真付きで新聞報道されたのだ。
当時ムサシトミヨの存在を知っていたのは、当時日本野鳥の会であり、近くに住んでいた田倉米蔵氏(現ムサシトミヨを守る会副会長)やその周辺の人ぐらいだった。
しかし、新聞に報道されその知名度はぐんと高くなってしまった。
「密猟を防がねば」田倉氏はすぐにそう思い、野鳥の会としては畑違いの「魚」の保護活動が始まりました。
まず行ったのは熊谷市へ保護を訴える陳情。しかし当時のあまりにも消極的で、絶滅する可能性が強い物を天然記念物に指定することはできないという考えだったようだ。
野鳥の会では、生息地域に防護柵を築いたりしたが密猟は後を絶たなかった。といっても、当時はムサシトミヨ自体捕獲することを禁止されていたわけでなく、元荒川も保護区域には指定されていなかった。
しかし、田倉氏を中心に近くに住んでいる人々で毎日パトロールを行い、魚を捕りに来た人々に説得を繰り返したそうです。→ |
ムサシトミヨ年表
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1933
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学会に巣を作る小さな魚が報告される。
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1941
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熊谷郷土史会誌で保護が訴えられる。
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1942
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熊谷いろは歌留多に登場。
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1957
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埼玉県水産試験場熊谷支場開場。大量の地下水が元荒川に流れ込む。
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関東異常渇水で関東各地の湧き水が枯れ、ムサシトミヨの生息地が奪われる。
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1963
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和名「ムサシトミヨ」が付けられる。
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1973
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「ムサシトミヨ発見」の新聞報道により、密漁が行われる。
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1984
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ムサシトミヨの生息区域が市の天然記念物に指定される。
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1985
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県営さいたま水族館オープン。ムサシトミヨの本格的な研究が始まる。
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熊谷東小学校で増殖が行われる。
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1987
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久下・佐谷田小学校で増殖が行われる。
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ムサシトミヨを守る会 発足
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1989
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ムサシトミヨの生息地が「ふるさといきものの里」(環境庁)に指定され、レッドデータブックに登場する。
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1990
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ムサシトミヨを守る会、県優良文化財保護団体として表彰
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1991
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「元荒川ムサシトミヨ生息地」として県天然記念物に指定される。
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埼玉県の県の魚に選ばれる。
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