<寺院>
仏教が急速に広まると、全国に寺院が建てられるようになりました。
別府の安楽寺境内にある九品仏堂(くほんぶつどう)は、720年頃に藤原不比等(ふひと/藤原鎌足の子)が仏像三体を安置した仏堂を立て、その後、別府行隆(べっぷゆきたか)が六体の仏像をたしたのが始まりだといわれています。
都から遠いこの地にどうして藤原不比等が作ったのかはわかっていません。現在置かれている仏像はすべて江戸時代に作られたものを思われています。 |
熊谷には、他にもこの頃作られた寺院がたくさんあります。
玉井の名前の元となった「玉井寺(ぎょくせいじ)」、佐谷田のお不動様として信仰のある「永福寺」。そして、日本一木三体像のひとつ愛染明王像がある下川上の「愛染堂」、星川のお不動様として有名な「円照寺」、熊谷市内で一番大きな茶臼塚板石塔婆のある村岡の「観音堂」などがそうです。 |
<神社>
寺院のほかにも神社も多く立てられました。法典の中に927年につくられた「延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)」には、全国の3123の由緒ある神社が記載されています。
この中に熊谷の神社としては、高城神社・奈良神社・田中神社の3つがあります。 |
高城神社は、熊谷の総鎮守。神話の神「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」が祀ってある神社です。
この神社にはいくつかの伝説も残っています。
奈良神社は、「奈良別命(ならわけのみこと)」を祀っている神社で、現在でも深く信仰されています。
田中神社は、三尻の田の中にある神社。(だから田中神社なのでしょうか?)近くの人々は田中天神といっています。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・天穂日命(あまほひのみこと)の3つの神様が祀られています。 |
<武士の起こり>
平安時代は、貴族が繁栄を極め、農民の苦しみは倍増しました。貴族は荘園(荘園)を増やし、農民への年貢や労役の負担が増えたのです。
地方に下った役人やその土地の権力者は土地を広げ、私兵を持ち勢力を持ちました。こうして自然に武士が起こったのです。
その大きなものに、清和天皇の子孫である源氏と、桓武天皇の後裔である平氏がありました。
熊谷周辺では鴻巣の箕田を源仕(みなもとのつかう)が所領し、
村岡には平良文(たいらのよしぶみ)が村岡五郎となって治めました。この村岡五郎はのちの坂東八平氏の祖となりました。
村岡五郎の子孫は関東地方の国司となり、それぞれ千葉氏・上総氏(かずさ)・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏(おおば)・梶原氏・長尾氏を名乗りました。これが世に言う関東八平氏です。
また、武蔵には武蔵七党とよばれる武士団が起こりました。横山党・猪俣党・村山党・児玉党・丹党・野与党・私市党(きさい)の7つが武蔵七党です。
熊谷付近の武士は私市党と横山党に属するものが多かったようです。 |
<武蔵武士>
武蔵武士が歴史上で活躍したのは、保元の乱(1156)からです。保元の乱とは藤原氏内の天皇と上皇の権力争い(摂関争い)から始まった戦で、武士を巻き込み大きなものとなりました。
この時、平氏・源氏とも天皇方につき勝利を収めました。
熊谷の武士達も大勢、戦いに臨みました。熊谷直実、箱田次郎、別府次郎、奈良三郎、玉井四郎、中条新五・新六の名前が残っています。
この乱により、貴族の無力化が表面化し次第に武士の力が強くなっていきました。→ |
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そして、3年後には平治の乱が起こりました。保元の乱で力を付けた平清盛と源頼朝の争いです。
この戦では、熊谷直実、斉藤実盛、岡部忠澄をはじめ箱田氏、玉井氏、河上氏、中条氏、奈良氏、別府氏等は源頼朝について戦いましたが、この戦では敗れ、平氏は全盛を極めました。
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