熊 谷 の 歴 史
<縄文・弥生・古墳時代>


縄文・弥生時代の古文書等はありませんので、この頃の熊谷の姿は遺物などから類推するしかありません。
太古の熊谷の姿をいっしょに想像してみましょう。 
 

 −  目  次  −

原始時代〜弥生時代
古墳時代
宮塚古墳
横塚山古墳
女塚一号古墳
女塚二号古墳
鹿那祇(かなぎ)東古墳


熊谷人Top↑ 奈良・平安時代→  奈良・平安時代→


 

原始〜弥生時代

 熊谷にいつ頃から人々が生活していたかははっきりしませんが、旧石器時代〜縄文・弥生時代の人々が使っていた、石器や土器、住居跡などが市内各地から多数出土しています。
 このことから考えると、15,000年前頃には人々が住んでいたと考えられています。
 熊谷では、昭和33年から本格的な遺跡調査が始められ、現在でも続けられています。
 新堀篭原裏遺跡から発見された、旧石器時代の石器が出土したほか、三ヶ尻・万吉・別府から縄文時代に使用された土器。そして、西別府・上之・池上からは弥生中期の稲作集落、その他住居跡なども多く見つかっています。
古墳時代

 古墳時代の様子は、古墳やそこから出土する埴輪などから、古代人の姿や生活状態を知ることができます。
 確認されている物では、熊谷に作られた古墳はそのほとんどが円墳で、その他に前方後円墳が7基、方墳が3基そして、上円下方墳が1基あります。
 しかし、多くの古墳は田畑として壊されてしまったようです。
 古墳というと行田のさきたま古墳が有名ですが、熊谷にもたくさんの古墳が残っており、国の文化財に指定されている物もあります。 
<宮塚古墳>

 広瀬にある宮塚古墳は、上円下方墳といって全国的にも数が少ない古墳。国の文化財に指定されています。高さは4.15m下方部が東辺が15m西辺が17m。7世紀末から8世紀初めに作られたのもです。
 宮塚古墳は、広瀬古墳群の一つで近くにも現在3基の古墳が残っています。
<横塚山古墳>
 
 中奈良の国道407号沿いにある前方後円墳が、横塚山古墳です。
 全長30mで後円部は直径22.5m高さが3.2m。昭和46年と51年の2回にわたる調査で、円筒埴輪などが出土し、古墳が作られたのはました。
 周りが水田になっているため、この調査の時点で既に古墳の裾部がだいぶ削られてしまっていました。また、国道407号(妻沼バイパス)の工事によりかなり削られています。
<大塚古墳>
 
 この古墳は、自然堤防に作られた大きな円墳で上部に熊の神社が祭られています。
 この神社は、上部を削って平にして作ってあるのでもとの高さははっきりとしていませんが、おそらく高さが5mで下方部は29mぐらいあったと思われています。
 昭和57年の発掘調査では、横穴式石室とその中から銅製金具・金箔などが出土しました。
 この古墳は7世紀前半に作られたものです。
<女塚一号古墳>
 
 中条のこの古墳からはたくさんの埴輪が出土しました。盾を持つ武人、冑を付けた武人、鼓を打つ人など形に優れ、しかも決められた位置に規則正しく飾ってありました。
 この古墳は5世紀末から6世紀初めに作られた前方後円墳ですが、現在は残っていません。 
<女塚二号古墳>

 一号墳の西に作られたこの古墳からもたくさんの埴輪が出土しました。馬・鹿・猪などの動植物の埴輪や人物埴輪・家型埴輪なども出土しました。
 どれも、表現豊かな物で当時の人々と動物たちが密接に関係していたことが分かります。
<鹿那祇(かなぎ)東古墳>

 6世紀中頃に作られたこの古墳は、現在どこにあったかわかっておりません。
 しかし、明治時代に中条のこの古墳から現在国の重要文化財となっている馬型埴輪や武人埴輪が発見されました。

 馬型埴輪は高さが87.5cmで鞍・泥障(あおり/泥よけ)をつけ、様々な装飾具がついています。
 きってのデザインや、学校の教科書になっているので皆さんも一度は見たことがあるでしょう。

武人埴輪は高さが64.2cmで、短甲(よろい)をつけた上半身だけの武人です。
 その顔は大変すぐれ、関東地方では他に類を見ない武人埴輪といわれています。

馬型埴輪・武人埴輪とも国の重要文化財として東京国立博物館に所蔵されています。
haniwa02.gif (16323 バイト)
haniwa01.gif (34973 バイト)

top

copyright (c) 360net