歌舞伎の中の熊谷次郎直実

 歌舞伎は庶民の数少ない娯楽の内のひとつでした。歌舞伎の歴史は比較的新しく、江戸幕府の成立と同じ頃だと言われています。そして、江戸の文化のひとつとなり発展していきました。
 歌舞伎は狂言ともいわれ、いわば作り話。実在した人物や出来事を取り扱うものが多いが、よりドラマチックに、よりおもしろく創作が加えられている。「歌舞伎=歴史上の出来事」と思ってしまうと、間違ってしまうので注意してください。あくまでも、作り話です。
(私自信、歌舞伎の研究家ではないので歌舞伎についての知識はあまりありません。かなり曖昧な部分があるところをお許しください。)

熊谷の場面が出てくる歌舞伎・狂言は沢山ありますが、現在でも上演されているものは数少ないようです。そのうち有名なものを次にあげてみます。

熊谷を舞台にした歌舞伎

四千両小判梅葉 (しせんりょうこばんのうめのは)
  作者 河竹黙阿弥

あらすじ:江戸城から四千両を盗んで追われている富蔵は、三百両を手に加賀にいる寝たきりの母の元へ戻ろうとする。しかし、戻ったところを捕らえられ、籠に入れられ江戸に戻されてしまう。その途中、雪の降る熊谷で役人の恩情により妻子と父親に会うことができ、別れを告げることができた。江戸城の御金蔵破りは、死刑。これが本当の別れとなった。
伝馬町の牢に入れられた富蔵は、牢の中でNo.2になるが、市中引き回しの上死刑となる。

ポイント:第5幕の「熊谷駅の場」では、主人公の富蔵は籠の中。表情だけで演技しなければならないという難しさを持っている。また、当時の人々は、伝馬町の牢というものがあるということは知ってはいるが、実際どういう所なのかは知る人はほとんどいなかった。当時ここに入った人は、死刑か流刑になっていたのである。
大詰めの「伝馬町の大牢の場」はこの牢の中を初めて歌舞伎に取り入れた作品で、これだけでも当時の民衆を惹き付けたのである。    

富士額男女繁山 (女書生)(ふじびたいつくばのしげやま)
  作者 河竹黙阿弥

あらすじ:頭の良い娘(シゲ)を持った父親は、この娘にどうにか学で生計を立てさせたいと思った。娘を男装させて東京へ、そして書生となった。
ある日、父親の様態が悪いとの知らせを受け、どうしても急いで父親の元に行きたいと思い、主人の金を盗んで人力車で伊香保までの実家まで向かう。しかし、その車夫は侍崩れの極悪人。女のようだと、薄々気付いていた車夫は、熊谷宿に入ったところで身ぐるみ剥ぎ取り乱暴する・・・。
東京に戻ったシゲは、すべてのことを主人に話して許してもらう。

ポイント:当時、女が男の格好をするということは、異常者扱いされ逮捕された時代。
熊谷で男装した女が警察に捕まったという新聞記事を元に作った作品である。 

須磨都源平躑躅(すまのみやこげんぺいつつじ)
 二段目切  扇屋熊谷
  作者 長谷川千四 ほか合作
  享保十五年(1730)に大阪・竹本座で初演された。

あらすじ:右大弁重虎の妹 品照姫と婚約した敦盛がそのしるしに青葉の笛を贈ったところ、やがて平家の旗色が悪くなったのを見て、重虎は一方的に婚約を破棄して、妹を姉輪の平次に鞍替えさせようとする。
 妹は敦盛を恋い慕い、姉輪に従わぬので、恋の遺恨もからみ、姉輪は平家余類の詮議に名をかりて、敦盛探しに懸命となる。一方、五条の扇屋上総は、平家に旧恩にあり、敦盛を女装させて匿っていたが、青葉の笛を取り戻しに行ったことが藪蛇となり、姉輪の強制捜査を受けるはめとなる。
 軍扇を求めるために偶然来合わせた熊谷は、武士道の情諠から、姉輪をしりぞけて敦盛の難儀を救う。この恩に感じた敦盛は、須磨浦の戦場で、直実の手で討たれることによって恩返しをする・・・。

ポイント:危ういところを助けられたことのある、恩人と戦場で刀を交わす。そして、恩人に手柄を立てさせるために自ら死を選ぶのである。当時の武士のありさまと戦国の世の悲しさ。
一谷嫩軍記の元、敦盛討死の由来となった作品である。

一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
 三段目 熊谷陣屋
 作者 並木宗輔 浅田一鳥 ほか合作  宝暦元年(1751) 大阪・豊竹座で初演された。

あらすじ:平家との合戦を前に熊谷次郎直実は源義経から1本の制札を渡された。「一枝を伐らば一指を切るべし」とその制札には書かれていた。
長く続いた平家の栄華も陰りを見せ、源氏は平家を追討する。須磨の浦一の谷で合戦。熊谷次郎直実は、息子小次郎直家と共に手柄を立てるべく先陣を切ったのである。
 逃げる平家の大将を須磨の浦の海岸で組み伏せた直実は、まだ年端の行かない若武者に逃げろというが、その若者は早く私を切れという。その若武者は、平敦盛だった。
 そうこうしているうちに、平山武者所季重が駆けつけ、「敵の大将を逃がすとは二心なり」と追いたてる。なくなく首を切り落とす直実だった。

 熊谷の陣屋に首を持って帰ると、そこには息子小次郎を心配してきた、直実の妻 相模と敦盛が討たれたと聞いて、敵討ちにきた敦盛の母 藤の方。
 そこに、義経が登場し首実検を行うことになった。直実は桜の木のそばにあった制札と共に首を義経に見せる。誰もが敦盛の首だと思っていたが、それは直実の息子小次郎直家のものだった・・・。

ポイント:「一枝を伐らば一指を切るべし」という制札に込められた、義経のメッセージとは。どうして、直実は自分の息子の首を敦盛と言ったのか。
現在でも、多くの名優達によって数多く上演されているこの熊谷陣屋。そのドラマチックなストーリーと、直実の人間性を見事に表した作品である。この作品が直実を有名にしたと言ってもいいかもしれない。  

 

熊谷次郎直実。義経に使え、鎌倉幕府を支えた武将の一人ではあるが、武士としては普通の武士。特に大きな所領を持っていたわけでもなく、高い地位についたわけでもない。天皇家の血は引いているが、この当時の武士としては本当に普通の武士である。しかし、歌舞伎の主人公になり現在でも語り継がれているのはどうしてでしょうか。

  

それでは一谷嫩軍記の話をもう少し詳しく紹介しましょう。 

一谷嫩軍記

序段

 平家との合戦を前に、熊谷は大将源義経から一の谷の合戦で平敦盛を討てと命じられ、一本の制札を渡された。
 そこには「一枝を伐らば 一指を切るべし」と書いてあった。昔、中国江南にこの地では珍しく梅の花が咲いた。そこで、花を折ったものは指を一本切るという御触れが出た。その故事に倣って鳥羽天皇の御代に、紅葉を折れば罰するという御触れが出た。義経はその二つの禁制になぞって熊谷に制札を渡し、一本の桜の若木を「お前の陣屋に植えよ」と授けたのである。そして、「若木の桜を守護するのは熊谷でなくてはならぬ」と言い添えた。熊谷は、陣屋に桜を植え、一の谷の合戦に出陣した。

二段 陣門・組打の場

 平家の栄華も夢と醒め果て、源氏の軍勢の猛攻に後退を重ねていた。元歴元年弥生の初め須磨の浦 一の谷の陣門へ真っ先に駆けつけたのは、源氏方で音に聞こえた熊谷次郎直実の一子小次郎直家である。初陣の小次郎は陣門の内から聞こえてくる管楽の音に耳を澄まし、さすが都人のやさしい心根と感慨にふける。「・・・いかなれば我々は、邪見の田舎に生れいで、鎧兜弓矢を取り、かくやんごとなき人々を、敵として立ち向かい、修羅の剣を研ぐことのあさましさよ。」としばし嘆じていた小次郎だが、あとから来た見方の平山武者所李重に扇動され是比なく門内に斬り入った。
 父親の次郎直実は、我が子の安否を気遣って駆け来り、同じく陣門へ切り込んだが、すぐに手傷を負った若武者を抱え「倅小次郎、手を負たれば養生を加えて陣所へ送らん」と叫んで去って行く。あとに平山は、平家方の大将無官太夫敦盛と見える公達が討って出たのに斬り立てられ、かなわずして逃げて行く。
 海辺では敦盛の許嫁玉織姫が、今朝から合戦で見失った恋人の行方をたずねてさまよっていた。その姿を見た平山は、かねて恋慕していた姫のこととて強引に言い寄り、相手がどうしても意に従わぬと見るや、可愛さ余って憎さ百倍、無残にも手をかけて深傷を負わしてしまう。
 ほど近くの須磨の海辺では、最前の公達が一門の兵船を追って馬を波間に乗り入れていたが、後を追って来た熊谷に呼び止められ、馬を返して剣を合わせた。勝負はつかず組み打ちとなり、やがて熊谷は相手を組み敷いた。熊谷が「かく御運の極まる上は、御名を名乗り給え」と促せば「無官太夫敦盛」と滑らかに答える。熊谷は「この君一人助けたとて勝ち戦が負けになるまじ」と、いったん逃がそうとしたが、折しも平山が後ろの山から「平家方の大将を組み敷きながら助けるとは二心」と大きな声で呼ばわるので、いまは詮方なく涙ながらにその首を打ち落とした。「無官太夫敦盛を討ち取った」と呼ばわる声に、深傷の玉織姫は「せめて名残に御首を」と慕い寄り、首に取りすがって息絶える。
 「どちらを見ても莟の花、都の春より知らぬ身の、今魂は天ざかる、鄙に下りて亡き跡を問う人もなき須磨の浦、なみなみならぬ人々の、成り果つる身のいたわしやなぁ。」とつくづく「もののあわれ」を感じた熊谷は、泣く泣く死骸を馬に乗せ、手綱を取って悄然と引いて行く。

三段 熊谷陣屋

 ここは生田の森の熊谷の陣屋。咲き誇る桜の木のそばに、弁慶が書いた「一枝を伐らば一指を切るべし」という制札が立っている。熊谷の妻 相模は、我が子小次郎の身を案じ、はるばるとこの陣屋まで訪ねて来たが、それからまもなく追っ手を逃れてここへ駆け込んできたのは敦盛の母、藤の方であった。相模にとって藤の方には昔熊谷と結ばれた時、その口添えによって不義の罪をまぬがれたという恩義がある。敦盛を熊谷が討ったという噂を聞いた藤の方は、昔の恩を言い立てて相模を詰める。相模も返答に窮する折から、梶原景高が敦盛の石塔を建てたという咎で、石屋の弥陀六を引き立てて奥へ入っていく。
 やがて熊谷が戻ってくる。藤の方は我が子の仇と斬ってかかった。是を制した熊谷は須磨の浦で敦盛を討った次第を詳しく物語る。扇を使って強く沈痛な身振りでの物語。前半の見せ場である。藤の方も戦場の常とて是非なく諦め、せめて回向のためにと香を焚き、形見となった青葉の笛を吹いて手向けると障子に写る敦盛の姿。しかし障子を開けて見れば、そこには緋緘の鎧が置いてあるだけだった。
 そこへ思いがけなくも大将義経が現われ、その場で敦盛の首実検が行われることになった。熊谷はさくらのそばの制札を引き抜き、首に添えて実検に供する。首桶の蓋を開けてみれば、それは敦盛ではなく小次郎の首であった。驚く相模、藤の方。

 

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