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一谷嫩軍記
序段
平家との合戦を前に、熊谷は大将源義経から一の谷の合戦で平敦盛を討てと命じられ、一本の制札を渡された。
そこには「一枝を伐らば 一指を切るべし」と書いてあった。昔、中国江南にこの地では珍しく梅の花が咲いた。そこで、花を折ったものは指を一本切るという御触れが出た。その故事に倣って鳥羽天皇の御代に、紅葉を折れば罰するという御触れが出た。義経はその二つの禁制になぞって熊谷に制札を渡し、一本の桜の若木を「お前の陣屋に植えよ」と授けたのである。そして、「若木の桜を守護するのは熊谷でなくてはならぬ」と言い添えた。熊谷は、陣屋に桜を植え、一の谷の合戦に出陣した。
二段 陣門・組打の場
平家の栄華も夢と醒め果て、源氏の軍勢の猛攻に後退を重ねていた。元歴元年弥生の初め須磨の浦
一の谷の陣門へ真っ先に駆けつけたのは、源氏方で音に聞こえた熊谷次郎直実の一子小次郎直家である。初陣の小次郎は陣門の内から聞こえてくる管楽の音に耳を澄まし、さすが都人のやさしい心根と感慨にふける。「・・・いかなれば我々は、邪見の田舎に生れいで、鎧兜弓矢を取り、かくやんごとなき人々を、敵として立ち向かい、修羅の剣を研ぐことのあさましさよ。」としばし嘆じていた小次郎だが、あとから来た見方の平山武者所李重に扇動され是比なく門内に斬り入った。
父親の次郎直実は、我が子の安否を気遣って駆け来り、同じく陣門へ切り込んだが、すぐに手傷を負った若武者を抱え「倅小次郎、手を負たれば養生を加えて陣所へ送らん」と叫んで去って行く。あとに平山は、平家方の大将無官太夫敦盛と見える公達が討って出たのに斬り立てられ、かなわずして逃げて行く。
海辺では敦盛の許嫁玉織姫が、今朝から合戦で見失った恋人の行方をたずねてさまよっていた。その姿を見た平山は、かねて恋慕していた姫のこととて強引に言い寄り、相手がどうしても意に従わぬと見るや、可愛さ余って憎さ百倍、無残にも手をかけて深傷を負わしてしまう。
ほど近くの須磨の海辺では、最前の公達が一門の兵船を追って馬を波間に乗り入れていたが、後を追って来た熊谷に呼び止められ、馬を返して剣を合わせた。勝負はつかず組み打ちとなり、やがて熊谷は相手を組み敷いた。熊谷が「かく御運の極まる上は、御名を名乗り給え」と促せば「無官太夫敦盛」と滑らかに答える。熊谷は「この君一人助けたとて勝ち戦が負けになるまじ」と、いったん逃がそうとしたが、折しも平山が後ろの山から「平家方の大将を組み敷きながら助けるとは二心」と大きな声で呼ばわるので、いまは詮方なく涙ながらにその首を打ち落とした。「無官太夫敦盛を討ち取った」と呼ばわる声に、深傷の玉織姫は「せめて名残に御首を」と慕い寄り、首に取りすがって息絶える。
「どちらを見ても莟の花、都の春より知らぬ身の、今魂は天ざかる、鄙に下りて亡き跡を問う人もなき須磨の浦、なみなみならぬ人々の、成り果つる身のいたわしやなぁ。」とつくづく「もののあわれ」を感じた熊谷は、泣く泣く死骸を馬に乗せ、手綱を取って悄然と引いて行く。
三段 熊谷陣屋
ここは生田の森の熊谷の陣屋。咲き誇る桜の木のそばに、弁慶が書いた「一枝を伐らば一指を切るべし」という制札が立っている。熊谷の妻 相模は、我が子小次郎の身を案じ、はるばるとこの陣屋まで訪ねて来たが、それからまもなく追っ手を逃れてここへ駆け込んできたのは敦盛の母、藤の方であった。相模にとって藤の方には昔熊谷と結ばれた時、その口添えによって不義の罪をまぬがれたという恩義がある。敦盛を熊谷が討ったという噂を聞いた藤の方は、昔の恩を言い立てて相模を詰める。相模も返答に窮する折から、梶原景高が敦盛の石塔を建てたという咎で、石屋の弥陀六を引き立てて奥へ入っていく。
やがて熊谷が戻ってくる。藤の方は我が子の仇と斬ってかかった。是を制した熊谷は須磨の浦で敦盛を討った次第を詳しく物語る。扇を使って強く沈痛な身振りでの物語。前半の見せ場である。藤の方も戦場の常とて是非なく諦め、せめて回向のためにと香を焚き、形見となった青葉の笛を吹いて手向けると障子に写る敦盛の姿。しかし障子を開けて見れば、そこには緋緘の鎧が置いてあるだけだった。
そこへ思いがけなくも大将義経が現われ、その場で敦盛の首実検が行われることになった。熊谷はさくらのそばの制札を引き抜き、首に添えて実検に供する。首桶の蓋を開けてみれば、それは敦盛ではなく小次郎の首であった。驚く相模、藤の方。 |