熊 谷 次 郎 直 実
kumagai jiro naozane


 熊谷次郎直実の幼年期についての記述は、ほとんど残っていない。
武士の子として生まれた直実は、2才の時に父直貞を亡くし、久下直光の元で養育された。


 この章から直実について詳しく紹介しますが、はじめにその元となった文書を紹介します。直実についての記述が残っているものは、「平家物語」「吾妻鏡」「源平盛衰記」などが有名です。この2つは紹介することもないでしょう。
 その他の文書としては、「太平記」「陰徳記」「迎接記文針芥鈔(ごうしょうきもんしんがいしょう)」「熊谷蓮生一代記」「蓮生法師伝」「熊谷家文書」などがあります。


迎接記文針芥鈔 

【作者】 河陽旧市 西念寺吟諦 亦式篁述
【体裁】 大本七巻八冊 漢字交じり片仮名 挿絵なし
【刊記】 寛延三年(1743年)

 この本は、勧化本といわれ、一般の人にも広く読まれるように、漢字と仮名で記されています。現代の人が読もうとすると読みにくいのですが・・・。
また、この中には「盛衰記等ノ抜粋ニテ軍書雑ノ法談本也・・・」と記されています。盛衰記とは、源平盛衰記のこと。
しかし、記述を見ると単に抜粋しただけではなく、源平盛衰期には記述されていない事項も記述されており、注目される。

 

熊谷蓮生一代記

【作者】 葛原斎仲通
【体裁】 半紙本七巻七冊 漢字交じり平仮名  挿絵あり
【絵師】 吉田寸遠斎  一部 堀田連山 各巻十六〜十八丁
     内挿絵見開き三〜四丁
【刊記】 文化八年辛未之春発行 京都書林
     三条通柳馬東エ入町/銭屋利兵衛
     智恩院古門前/沢田吉左衛門

 この本は、僧になってからの直実、蓮生の一生を書き記したもの。直実は仏であるため、一部宗教的な装飾がされているので注意が必要。


直実の幼年期

 直実が生まれたのは、永治元年(1141)2月15日。幼名は弓矢丸といい、2才の時に父直貞と死別。久下直光のに世話になって母子暮らすことになる。直実の母は久下直光の妻の妹。つまり、久下直光は叔父にあたるわけである。直実の父 直貞は、剛力の持ち主として有名だった。素手で熊を倒したという武勇伝も残っている。直実もこれに負けず劣らずの勇者として成長しました。

<資料> 迎接記文針芥鈔  巻之一

 武蔵国崎玉郡熊谷ノ庄ノ住人筱堂ノ旗頭熊谷次郎直實は先祖ヲ尋レバ人皇五十代桓武天皇ヨリ十一代平次郎太夫直貞カ三男母ハ成木太夫久下権守カ妹也・・・直實二歳ノ時配流セラルルカ故ニ京都ニ捨置所ニ是ヲモ殺サルベキニ究リシヲ母方ノ叔父ナレハ久下権守養取テ則平家ノ一族清盛ノ従弟二位門脇中納言敦盛ノ侘ニ候テ一命ヲ助ケ乳母カ元ニテ養育程ニ後ニハ是モ父ノ配所武蔵ノ熊谷ニ成長シ・・・

 

 ●熊谷蓮生一代記では、神への祈りにおいて生まれたことになっている。
生まれの日が書かれ、生まれた場所は京である。

<資料> 熊谷蓮生一代記 巻之一

 人皇五十代桓武天皇より十一代の後胤にして、鳥羽院の北面、高力次郎太夫平直貞が三男、母は成木太夫久下権守が妹なり、されば直貞二人の男子あれども心に叶わす、何とぞ剛勇の一子を得たく思ひ居けるが、爰に洛東岡崎の法勝寺と申は、・・・殊更當寺の八幡宮は霊験新たにして諸願空しからざれば、貴賤老若の参詣日に毎絶間なければ、直貞夫婦を此御神に祈誓をなしてると見て夢は覚めたり、夫より妻女唯たらぬ身となり、月日を送りしに、永治元年の春二月十五日の早天に玉のようふなる男子出生しける、・・・弓矢丸と名付けて夫婦が中に奔走しけるが、月日を重ねて直貞倩々小児の景を考るに、是唯人にあらず、成長の後は世に名を揚ぐべしと楽しみ養育しける、・・・

(図は光明寺の掛幅。蓮生一代記のものではない。)

 

●蓮生法師伝では、直実は京都で生まれたことになっている。
これは、直実は多くの寺の開祖となっているため、直実は京都生まれということにしているらしい。

<資料>蓮生法師伝 法然寺蔵

一とせあまり國本に在りて又々都に登りける京都錦小路烏丸の東に父直定の舊地あり入道も爰にて産し所なれば此地を浄刹とし所々の会戦亡霊のため旦は両親菩薩のためにと國本よりきがねあまた取寄せ爰に住して明暮念仏三昧に入らばやと発起せしが・・・

*年号や行いなどについては諸説あるものがあり、その真意は遠い昔のことなので解りません。

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