
熊谷家についての系図は、全国に複数残っており、正確なところはわかっていません。
かなりの名門であれば、こうした系図が多数残され、互いに照合しその真意がおおよそわかるものですが、熊谷氏の場合は、天下を取ったわけでもなく、残されたものはそれほど多くない。
また、系図自体も、その時に書かれたものではなく、数百年たってから書かれたもので、間違いや、思いこみ、都合主義で次々に有名な人を取り込んでしまっている例もあるようです。
この系図で、直実がどこにいるかわかるでしょうか?
熊谷氏は、宣化天皇を祖とし、丹治姓・私市(きさい)氏を経て直季(なおすえ)の時、熊谷氏を名乗った。
直季は、源頼義に従い、前九年の役で鎮守府軍監として功をあげ、熊谷地方三千余町を賜り武州目代として私市氏より分家して、熊谷市を名乗りました。熊谷氏の祖です。また、直季の叔父直信は、久下氏の祖、直季の弟直長は、肥塚氏の祖となり熊谷周辺を治めていきました。
熊谷氏は、直季(なおすえ)・直広(なおひろ)・直孝(なおたか)と続きますが、直孝は子供に恵まれませんでした。そこで、直孝は、平家一門の直貞(なおさだ)を迎え入れました。これによって、桓武天皇家系と宣化天皇系が合体した、新熊谷氏が誕生しました。
以降、熊谷氏は危機を乗り越えながら功績を挙げ、三河・奥州・近江・萩などに所領をもらい、活躍してゆきました。
しかし、この新熊谷氏の誕生を喜ばない人がいた。それは平忠盛だった。
忠盛は、三十三間堂のを建立し千体仏を安置した恩賞として、内庄殿を許された。人々はこれを羨んで闇討ちを謀るが、ばれてしまい捕らえられた。この中に、直季の父 盛方(もりかた)がいたのである。
忠盛は熊谷氏として大きくなった直貞が将来仕返しに来るのを恐れ、直貞とその子 直実の殺害を命じた。
運良く直実だけは、助かるが忠盛は「根絶って葉を枯らせ」と再び直実の殺害を命ずる。しかし、忠盛の子経盛とその妻は、直実の命を助けることを乞うた。さすがの忠盛もこれに折れ、幼い直実だけは助けることにした。
(それにしても大きな画像ですいません)
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